桂離宮シリーズ4日目は庭について尼崎博正先生にお話を伺いました。
通り一遍の桂離宮案内にならないようにと、かなり専門的なお話が主でした。
明治13年の写真。多数の見学客を捌くために松琴亭まで木製の仮橋が架けられた。
中井家本「洛外図屏風」より桂(右が北)集落が塊になっていて、自然堤防と呼ばれるちょっとした高台に島状に点在している。集落の周囲が竹で囲われているのが読み取れる。桂垣などはその名残なのではないか。
今日のお話のポイントをまとめておきます。
1 桂離宮にとって、桂川の洪水対策は最大の重要事だった。
2 桂離宮はそもそも八条宮家にとって荘園の管理出張所だった。
山手にもっとも重要な眺望を得られる桂の茶屋が別にあった。
平安時代以来、良い眺望が名庭の条件。鳥羽離宮はその点で評価されなかった。
3 桂離宮の石に着目。それまではあまり見られない切石の手法や有馬石が用いられている。
京都では古くからチャートが多用され、結晶片岩(紀州青石など)が好まれたのは室町中期以降から。
貴船石や鞍馬石のこのみは江戸後期〜明治とずっと時代が下る。
4 庭は変わるものだ。昔の絵図を見ても、松琴亭前には朱塗りの橋がかかり、さらにその前は地続きだった。
昭和9年の室戸台風の被害は相当のものでかなりの庭木が倒れ、植栽の検討がなされた。
現在も、混みすぎた植栽については写真の多い昭和10年代の状況を基本として適宜整理されている。
5 桂離宮の庭にどの程度お茶の影響があったか、まだきちんとした研究はなされていないが、
飛び石や延段の多用などを見ても、その影響はかなりあると思う。
6 庭一般の話として、従来論じられた年代推定などはすこぶる怪しいものが多く、近年の発掘調査で
判明することが屢々だ。桃山期の典型と言われていた庭が発掘で江戸後期とわかったこともある。
単に石組みの手法からは年代はわからないと思った方がよい。
(さの)