Rheanna:大仙院の石庭を見て
*岩や植物は、仏教に従って人生を歩む物語を語っている
*シンプルさに多くの美しさがある
*このシンプルさにより、鑑賞者は自分の想像力と心を使って自然の芸術作品について考え、自分の経験を物語に織り込む余地が生まれる
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6月27日、テキサス大学学生たちとよしやまち町家でランチタイム。
物集女竹林で計画している休憩施設として2畳大の茶席をデザインしてもらっている。火曜日にみんなで現地で決めたらしい。そのスケッチを見せてもらった。
Michelle
この場所は放置竹林と整備された竹林との境界の場所だ。僕がお気に入りと言ったのを受けたのかな?スケッチでは放置竹林のカオスを望む方向で描かれているが、片流れの屋根といい、フェンスといい、向きが違うのではないか?と、スケッチを描きながら、わが国の伝統的で標準的な風景の捉え方について説明してみた。
見たい景色に向かって庇は下に下がって景色を限界づける。視線は自ずと下方に向かうことが多い。スケッチでは手前側に客が座り、外を向いているが、そうすると、亭主が正面に来て景色が遮られる。それで通常は席を90度回転させることが多い。でも、これは茶席とする場合の基本的な構えであって、君たちは自由に設定していいよと。ただし頭で考えるのではなく、実際の場で座っていろいろ試した上で方向を決めたらいい。
腐って倒れた竹が地面を覆うカオスの光景と、片付けられてきれいになった竹林との両方が眺められる。そのどちらが自然なのか?この席のテーマは「自然と一つになる」oneness with nature だと思うが、僕たちは整備されてきれいな竹の姿を愛でるところに自然を見ていた。ところが、一方の朽ちた竹が横たわる光景も自然なのだ。竹はこのカオスを望んでいるのではないか?整理され、美しい竹林は人間にとっての自然の姿なのであって、竹にとっての自然ではないのではないか。
でも、彼らには前もって禅寺の石庭を鑑賞して来てもらい、それらが自然を象徴していることを実感してもらっていた。それら石庭こそ、人の手で念入りにに管理され美しく整えられたものだった。その石や苔、植物の姿は自然物でありながら、人の手で仕立てられた自然の姿をそこに認めるのである。が、人の手で構築された石組みに、時としてわれわれは飛沫を上げながら滔滔と流れ落ちる滝を見、あるいは激流に洗われて姿を保つ岩を見、また日の光を散らしながら反射させる大海に聳り立つ切り立った岩壁の島を目の当たりにするのである。そこにそれを可能にしている卓越した庭師たちの技量があり、見識の高さがある。またそこに浮かび上がる感動をこそわれわれは美といい、美しいと発語しているのである。この美しいを感じるところに、われわれが目指す一なる oneness の境致があり、自然の現在があると言えないか? とすれば、先のどちらが本当の自然なのかという議論は意味を失い、われわれが求めている一なる自然は、そのどちらにあるかということではなく、どちらにおいても竹の本然が現れるところに、自然の現在、現成があると言うべきだろう。
この議論はとても英語で表現できず、説明をあきらめた。いずれ機をみて、翻訳して伝えておこう。すこしずつ理解してもらえばいい。
(さの)