テキサス大学学生たちの竹林セミナー 3 自然とは?    6月20日 27日

6月20日テキサス大学の学生たちと竹林での学びシリーズから。17日月曜日にこの竹林でもっとも気に入った場所を見つけ、スケッチをして、18日火曜日にお茶会を体験してもらい、19日水曜日に大徳寺の大仙院と龍安寺の石庭を見て、今日20日は庭について語ってもらった。

Rheanna:大仙院の石庭を見て

*岩や植物は、仏教に従って人生を歩む物語を語っている
*シンプルさに多くの美しさがある
*このシンプルさにより、鑑賞者は自分の想像力と心を使って自然の芸術作品について考え、自分の経験を物語に織り込む余地が生まれる

Michelle: スケッチブックから
さののコメント:
石庭の解釈はいろいろあって、それは見るものの想像や考えに任せるものだ。一応、説明にもあり、誰もが想像できることだが、書院の北東に組まれた蓬莱山(須弥山)の滝から落ちる水が激流となって南に走り、花頭窓の玄関廊を経て穏やかな流れとなり、南庭の大海に通じていく。実際の滝や渓流、大河大海を見たことがない者には水の流れは見えてこない。これら石庭は現実の水の経歴を縮めて絵にしたものだ。この絵は紙や絵の具を用いず、石や砂利と植物で描かれている。でもそこに置かれている石組みの石は現実の石だ。リアルな石を用いて、象徴的な岩を、山を、島を表現している。翻って、現実の絶景をなす風景もまた、描かれた絵なのだ。絵なればこそ、見る者に感をなさしめる。(道元:正法眼蔵「画餅」)
面白いのは、この石庭を取り囲む塀と建築との関係だ。書院を取り囲む開放的な縁側のすぐ鼻先に石庭がある。また庭をまたぐ廊もある。これら建築は日常的な機能も有する現実的なもの、いわば俗なものが聖なるしつらえに入り混じっている。この俗な構えがいつでも聖なる風景を現実の世界に引き戻す。聖・俗の往還がまたこの石庭のテーマの一つなのだと思う。先の絵の絶景が来臨する次の瞬間、それらは目の前の現実の石組みに戻るという構造と同じなのだ。
またさて、もう一つ、これが石庭といわれる庭であるということはどうして可能か?紙に描かれたちょっとした景物画が絵として鑑賞されるのには、実はそれを絵画作品であるという事実的な了解のもとにおいて行われる。つまり、絵となっている紙やキャンバスの断片は、それが額縁に収まって壁に掛けられているという構えが前提となっているのである。同様に、石庭、庭は額縁となる塀、それを境界づけている仕掛けを求めるのである。どこまでも連続して伸びている原野の石組みをわれわれは庭とは呼ばない。山の中で出会う渓流の風景をわれわれは庭とは言わない。「庭のようだ」と感嘆して口にすることはしばしばある。だが、それは自然の景物の一部であって、庭ではない。庭は、人の手によってつくられたものだと思われているが、自然の景物をそのまま庭にすることも可能なのだ。ただ、その際に、人は自然の景物を何らかの手法で周囲の自然から切り離す。隔離が庭の原理である。(深田耕算「知覚の構造」)
 ***
そして再度、竹林で自分のお気に入りの場所でその風景をどういうふうに見たかを語ってもらった。
彼らはまだ庭と自然の風景との本質的な違いについて考えるというところまでは届いていないが、5人が選んだ場所で見える風景を構造化して捉えるという演習の意味は理解できたようだ。残念ながら、私の英語力では彼らの言わんとすることをきちんと理解し、フォローすることが出来ず、もどかしい。まあ、あわてず、ゆっくり付き合いながら一緒に考えていくことにしよう。

***

6月27日、テキサス大学学生たちとよしやまち町家でランチタイム。

物集女竹林で計画している休憩施設として2畳大の茶席をデザインしてもらっている。火曜日にみんなで現地で決めたらしい。そのスケッチを見せてもらった。

 Michelle

この場所は放置竹林と整備された竹林との境界の場所だ。僕がお気に入りと言ったのを受けたのかな?スケッチでは放置竹林のカオスを望む方向で描かれているが、片流れの屋根といい、フェンスといい、向きが違うのではないか?と、スケッチを描きながら、わが国の伝統的で標準的な風景の捉え方について説明してみた。

見たい景色に向かって庇は下に下がって景色を限界づける。視線は自ずと下方に向かうことが多い。スケッチでは手前側に客が座り、外を向いているが、そうすると、亭主が正面に来て景色が遮られる。それで通常は席を90度回転させることが多い。でも、これは茶席とする場合の基本的な構えであって、君たちは自由に設定していいよと。ただし頭で考えるのではなく、実際の場で座っていろいろ試した上で方向を決めたらいい。

腐って倒れた竹が地面を覆うカオスの光景と、片付けられてきれいになった竹林との両方が眺められる。そのどちらが自然なのか?この席のテーマは「自然と一つになる」oneness with nature だと思うが、僕たちは整備されてきれいな竹の姿を愛でるところに自然を見ていた。ところが、一方の朽ちた竹が横たわる光景も自然なのだ。竹はこのカオスを望んでいるのではないか?整理され、美しい竹林は人間にとっての自然の姿なのであって、竹にとっての自然ではないのではないか。

でも、彼らには前もって禅寺の石庭を鑑賞して来てもらい、それらが自然を象徴していることを実感してもらっていた。それら石庭こそ、人の手で念入りにに管理され美しく整えられたものだった。その石や苔、植物の姿は自然物でありながら、人の手で仕立てられた自然の姿をそこに認めるのである。が、人の手で構築された石組みに、時としてわれわれは飛沫を上げながら滔滔と流れ落ちる滝を見、あるいは激流に洗われて姿を保つ岩を見、また日の光を散らしながら反射させる大海に聳り立つ切り立った岩壁の島を目の当たりにするのである。そこにそれを可能にしている卓越した庭師たちの技量があり、見識の高さがある。またそこに浮かび上がる感動をこそわれわれは美といい、美しいと発語しているのである。この美しいを感じるところに、われわれが目指す一なる oneness の境致があり、自然の現在があると言えないか? とすれば、先のどちらが本当の自然なのかという議論は意味を失い、われわれが求めている一なる自然は、そのどちらにあるかということではなく、どちらにおいても竹の本然が現れるところに、自然の現在、現成があると言うべきだろう。

この議論はとても英語で表現できず、説明をあきらめた。いずれ機をみて、翻訳して伝えておこう。すこしずつ理解してもらえばいい。

(さの)