市民講座Vol.31-2重要文化財・松殿山荘 講座内容

近代建築としての和風空間 ―松殿山荘の見方

先般(2018年10月13日)行われた市民講座の概要をお知らせします。

なお、京都建築専門学校では、松殿山荘について、和の空間ゼミ(建築科および建築科二部)および伝統建築研究科において学びます。

また内容の一部は『茶の湯空間の近代』(桐浴邦夫著、思文閣出版、2018.2)にも記しています。

松殿山荘の見方 3つのポイント

方円の考え:心は円なるを要す、行いは正なるを要す

  1. 江戸時代の大坂の町家の名残としての建築
  2. ジェントルマンアーキテクト高谷宗範の作品として
  3. 数寄屋建築の近代化への試み

松殿山荘概要

まずは、松殿山荘の概要について記しておきましょう。

詳しくは公益財団法人松殿山荘茶道会のwebページなどをご覧下さい。

  • 設計:高谷恒太郎(宗範)
  • 竣工:大正9年(1920)~昭和9年(1934)
  • 広さ:約120,000平方メートル(36,000坪)
  • 庭園:約10,000平方メートル(3,000坪)
  • 建坪:約3,300平方メートル(1,000坪)
  • 席数:17席
  • 主要建築:主屋(大玄関、中玄関、大書院、中書院、眺望閣、天五楼、楽只庵、不忘庵、九垓廬、文房室、好古庵、申々居、主人室)、蓮斎、撫松庵、春秋亭、檆松庵、聖賢堂、仙霊学舎、修礼講堂 など

この建築群は何よりも、方円の考えに基づいた特殊な造形が目をひきます。方円の考えとは、高谷恒太郎(宗範)の言葉で「心は円なるを要す、行いは正なるを要す」という意味です。人間の生き方として最も大切な考えと言えるでしょう。そして建築のかたちとして丸や四角が多用されています。
しかし、その奥には宗範の更なる深い考えがあったのです。

江戸時代の大坂の町家の名残としての建築

高谷宗範は明治半ば、大阪の元天王寺屋五兵衛の屋敷に住みます。この天王寺屋とは江戸期に権勢を誇った大坂を代表する大商人でしたが、維新を境に急激にその勢力を減じ、やがて屋敷は新聞社の社屋などに使われていました。それを手に入れたのが宗範でした。

やがて宇治の木幡に現在の松殿山荘を建築することになりますが、この天王寺屋の屋敷の一部が移築されています。ただ、江戸期のものそのまま、ということではなく、宗範が大きく手を加えたと考えられるものです。今回の市民講座では、その謎解きを試みました。

なお、現在残されている江戸期の大坂の町家、適塾は、この天王寺屋五兵衛の分家である元天王寺屋忠兵衛の屋敷でした。したがって現在の松殿山荘には、この適塾の一部の部屋と大変似た造形をみることができます。

ジェントルマンアーキテクト高谷宗範の作品として

ジェントルマン・アーキテクトという言葉を御存知でしょうか。アメリカの第3代大統領トーマス・ジェファーソンはもちろん職業としては政治家であるわけですが、同時に建築に対しても大変造詣が深い人物でした。あるいは千利休は商人であり茶人でしたが、建築についても、木材の吟味から、職人の手配まで気を配っていたということが、残された史料からうかがうことができます。

高谷宗範も職業としては元は役人であり後に弁護士として活躍しますが、同時に建築についても大変詳しい人物でした。松殿山荘には宗範が描いた1/100の美しい配置図(平面図)が残されており、同様の筆致とみられる図面が株式会社千島土地に保存されています。

宗範は芝川氏や菊正宗の嘉納氏の屋敷や茶室の建築に深くかかわっていました。御存知のように芝川氏の屋敷には武田五一設計の洋館がありました。現在、明治村に移築されていますが、洋風建築をベースに和風デザインを組み込んだ作品でした。その芝川氏の茶室の設計を宗範が行ったというのです。その建築の多くは現在みることはできませんが、宗範の方円の考えが採用されたものや現在の松殿山荘に通じる造形のものがつくられていたことが、千島土地に残された史料からみることができます。

ではなぜ、芝川氏や嘉納氏は宗範の設計を依頼したのでしょうか。ここではジェントルマン・アーキテクトとは言っているものの素人には違いありません。いきなり宗範に依頼することは考えられません。少なくとも、彼らの茶室の設計以前に、宗範が実績を積んでいたことは確実だと思われます。おそらくそれは自邸、すなわちこのときは大阪の旧天王寺屋五兵衛邸における新築や改築などが行われ、その評判が良かったとみるべきでしょう。つまりそれは、現在の松殿山荘の天五楼や楽只庵だと考えられるのです。

数寄屋建築の近代化への試み

先にも書いたように、高谷宗範は、芝川氏を通じて武田五一との関わりがあったことが知られます。あるいは茶友である村山龍平の屋敷は藤井厚二が設計しています。具体的な繋がりは現在のところ分かりませんが、意識をしていたことは確かでしょう。

宗範は『茶室と庭園』(1927)を記します。これは京都帝室博物館での講義をまとめたものです。それをみるとじつに建築について詳しく研究していることがわかります。すなわち建築の歴史のこと、建築の設備・環境のこと、そして建築の様式のことなどです。全くの素人が語る内容とは思えません。おそらくは武田五一あるいは藤井厚二らから、直接あるいは間接的に建築の知識を得ていたことが考えられます。特にこれからの日本建築のありようについて、深く考察していることが読み取れます。それは藤井厚二の主張とかぶる部分もみられます。

そのような状況を踏まえると、この松殿山荘は、数寄屋建築をいかにして新しい時代のものとして発展させていくべきか、ということをひとりの茶人(ジェントルマン・アーキテクト)がさまざまに考察し、具体的なものとして試みた建築であるとみることができます。プロフェッショナル・アーキテクト藤井厚二が大山崎で試みた実験住宅と巨椋池を挟んでその対岸に建築されたこの建築は、新たな時代への数寄屋の壮大な実験建築であったとみることができるでしょう。(ki)

(なお、事情により画像の画質を落としています。)

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